2024年1月のまとめ 「つげ義春『ねじ式』を読んで」

こんにちは、馳川です。
今年も早速1月が終わってしまいましたね。
みなさまどうお過ごしでしたでしょうか。

私は、創作者としての今後の方向性がより明確になったひと月でした。
昨年末に産業成人向け作品は作らないと決めて、いよいよ「売れ線」ではない漫画の制作に取り掛かるようにシフトチェンジをした段階で今年を迎えました。
その後、様々な著名な漫画家の作品を読みながら、その作家の秀でた部分を分析しつつ「私だったらこうしたい」と、外側から自分の進みたい方向性を模索していたのが大半の時間だったかと思います。

その中で一番衝撃と影響を受けたのがつげ義春の『ねじ式』でした。
私が小学生のときの美術の教科書にも載っていたほどに著名な名作ですが、お恥ずかしながら読んだことはなかったのでこの機会に拝読しました。これも、私の漫画はいわゆる「ガロ系」に分類されるであろうものになるという見通しが立っている中、「ガロの元祖」に触れないわけにはいかなかったわけです。
圧巻でした。今まで私が必死に学ぼうとしていた「漫画のイロハ」が良い意味でどこにもなく、ゆえに洗練されていて純度の高い作品でした。
主人公のキャラクター像も良く分からず、ストーリーも一応最後には変化はあるもののそれまでの流れが不条理なもので、共感性などほとんどなく、それでも、それゆえ、ストーリーの不条理さ、ゆえの面白さが際立っていて、非常に魅力的な作品でした。
これだけ自分の琴線に触れているということは、つげ義春の作品は私の描きたい作品の延長線上か付近にあると確信しました。私の進むべき方向性が明確になった瞬間でもありました。
また、一般漫画のセオリーがなくてもこのように多大に評価されていることも、私にとって救いの存在でした。
私はどこか漫画のセオリーを踏襲している作品を描きたくないという気持ちがありました。それは逆張り精神から来る欲求ではなく、表現したいもののノイズになると感じていたからです。でも、漫画を受け入れてもらうには、そうするしかない。はあ。どうしたものか。と思っていたところに当作品に触れ、「セオリーがなくとも漫画は成立する」という視野を得ることができ、胸をなでおろしました。今まで様々な編集部に言われた「変化がない」「共感できない」という批判もある種のトラウマになっていたのですが、つげ義春のねじ式の存在が、その批判を跳ねのけ、編集部の意見もただのひとつの指標でしかなく、絶対的なものではないということに気づかせてくれたのです。そういった意味でも、『ねじ式』は私にとって大きい存在となりました。
その後は様々なガロ掲載作家の作品を履修するに励む日々を送っています。『ねじ式』の後はどのような作品が生まれているのか、それを生み出した作家はどのように評価されているのか、など。
このような創作をしない時間も創作者にとって大切だと思っております。インプットとアウトプットを繰り返し、外側から見える自分の両方の輪郭と内側から見える自分のコアを知ることで、自身の世界での立ち位置を確かなものにできると思っているからです。あとインプットは何より楽しいです。

自分の創作の話に戻ると、自分はやはり芸術性の高い漫画を描きたくて、なんならハイカルチャーに属するような漫画を描きたくて、それでいて内容も哲学的だったり象徴的だったり観念的だったりして、本当にとっつきにくい作品を作りたいと思っています。
表象についてはこんなかんじで、もっと洗練させていけたらと思っています。

これもねらいはあって、漫画の基本構成要素である「線」を排し、「点」(粒子)を用いることで新たな漫画の表現を可能にしたいと考えています。
登場人物が「意志を保っている状態」には線を使用しますが、それ以外の「無意識の領域にいる時」などは線を遣わずグラデーションのみで描写する、というルールに則っています。
使っている画材はコンテ、チャコールペンシルなどです。もっとグラデーションの階調を上げてエッジを抑えつつも描写したいのですが、原稿用紙との相性が悪いらしく、今後は多少の凹凸のある支持体に描こうと検討しています。
インプットだけで頭でっかちにならないように一応アウトプットもして、「ああ自分まだまだだな」と打ちひしがれながら驕らないように制作しております。

そんな感じの2024年1月でした。
今月2月は、より一層作品鑑賞をし、作品の批評を読み、そして手を動かす、と、先月得たものをより具体的にしていく所存です。
今後もどうぞよろしくお願いいたします。